光子暦(PC:Photon Century)197年。人類が自らの世界の真実に辿り着いてから、197年目。
その日、旧世紀に栄華を誇っていた由緒ある国家の一つが行政能力の全てを失い、消滅した。・・・それ自体は、近頃ではそう珍しいことでもない。
しかし、それと同時に。
既に広くはないその惑星の一角で、一人の男が永い眠りから目覚めた。
そのことを、誰も知らなかった。
数字から見ると、未だに50億を下らない世界総人口が、たった一人増えただけの話だ。情報としての価値は無い。そんな瑣末なニュースに対して、誰も見向きはしなかった。
以前とは比べるのが不毛なほどに、あらゆる情報が極限に近い速度で循環し続けるこの世界。しかし、「彼」にとっては。それは単に、終わりと始めが繋がっただけの世界にすぎない。二重螺旋状の円環に囚われた、無意味な永遠。
そう。何一つ、変わってなどいない。
違いがあるとすれば、ただひとつ・・・・・
久方ぶりに吸い込んだ空気の不味さに、彼は眉を曇らせた。
翌日、世界は未曾有の大混乱に陥った。人々の生活基盤となっていた汎地球圏光子ネットワークが、有線・無線を問わず、一斉に機能不全に陥ったのである。全ての情報が平滑化されて情報としての意味を失い、同時にネットワークの支配下にあった物理稼動端末がその役割を放棄、世界規模での叛乱・・・いや、規模からすれば、それはもはや制圧と言った方が正しい。それらは圧倒的武力を以って、人々を瞬く間に制圧していった。
自らの技術に慢心し、安寧を享受していた人々は、それらに対抗する術を持たなかった。
人々は知らなかった。既に技術的熟成期に入り、信頼しきっていた強固なネットワークを尽く蹂躙したものが、容量にしてたった1KBの単純な自己増殖プログラムであったことを。しかし、たかが1KBと侮ること自体が慢心なのだ。1KBという情報量は、「28000通り」の可能性を持っている。10進数にして約2400桁。そもそも億や兆でとどまる桁数ではない。
その悪質な自己増殖プログラムは、それぞれの拠点の間に築かれた幾重もの防壁を次々と食い破り、細かく枝分かれするネットワーク構造を侵食し、飛び交う電波にすら便乗して、まさに指数関数的速度で被害範囲を拡大していった。その自己増殖プログラムは、自らの身軽さを利して、ネットワーク管理プログラムがそれを異常と認識して対処するよりも早く、まさに疾風怒涛の勢いでネットワーク上を駆け抜けたのである。進化の極みに達したネットワークは、それ自体があまりに高速であるために、逆にこの単純で高速で軽いだけのプログラムを止めることが出来なかった。
余人よ驚く莫れ。それは実に、起動からほんの1255.2msで世界全土を席巻していたのである。
そのたった1255.2msで何が起こったのかを正確に把握出来る者など、居はしない。
この平和な時代に誰が予期したであろうか。それは人類史上初の、世界征服であった。
しかし、もう少し冷静に考えてみると、比較的早い段階で次のような事実に行き当たるはずだ。
いかに優れたプログラムであろうと、そのようなことを実現するのは物理的に不可能である、ということだ。
全てに繋がるネットワークといえど、相手がデータを受け取り、かつその内容を無条件に実行しない限り防壁を超えることは不可能であるし、通信規約に則っていない信号では、データを送信することすら出来ない。
・・・・はず、だった。
だが、それ以上に信じがたいことに。ほんの1秒あまりでその離れ業をやってのけた人物は、200年もの間眠り続けていた、たった一人の技術者であった。
ただ一人。しかし、彼はただの技術者ではなかった。
男の名はユアン。Dr.ユアン=アニヒレィス。
光子暦の幕開けの直接的要因となり、その後の技術の発展の礎ともなった「原色統一理論」を打ち立てた人物であり、同時にその危険すぎる発想ゆえに無期冷凍刑の実刑判決が下された人物でもあった。
そして・・・・受像機越しに人々の前に姿を現した世界の覇者は、まず1つ目の政策として、「全人類の抹殺」を宣言した。
事件から、29日余りが経過した。
人類は、未だ健在。一見平穏な生活を送っているように見えるが、しかし、人々の心にはほぼ例外なく、淀みがあった。
Dr.アニヒレィスの「審判の刻」まであと36時間。彼は今、木星軌道上において人類最後の英知となるであろう巨大な構造体を構築している。それが何なのかを知る者は、他にいない。ただ一つ解るのは、それが完成したとき、彼の言葉を借りるならば凡そ36時間後に、人類は例外無く死滅するということだ。
それは殆どの人々にとって、確定的運命と思われた。抗おうとする気力すら失せ、瞳の奥は絶望に支配されていた。
その絶望には、確固とした理由がある。
まず、対抗戦力というものが存在しない。無論、兵器というものはあるのだが、光子暦が始まって約200年。戦闘兵器は尽く無人化が進んでおり、実質上その全てが物理稼動端末としてネットワークの支配下に置かれている。すなわち、今やそれらの戦力全てがアニヒレィスの管理下に置かれてしまっていることになる。
また、仮にどこからか有人機を持ち出したとしても、それらに対する勝算がまるで無かった。開発の止まった旧世代機であるから性能で劣っているのは勿論のこと、人間の操縦には物理限界がある。一瞬で最適の判断を下す高性能の戦術・戦技解析演算装置を搭載し、人間の数倍の無茶な加速機動にも耐える無人戦闘機に、生身の人間が操縦するものが適う道理が無い。
そして、根本たる汎地球圏ネットワークを奪回しようとする動きが、世界中で同時多発的に幾度となく繰り返されたにも関わらず全て失敗に終わっていること。このネットワーク構造自体がDr.の提唱した理論を元にして成り立っており、欠点も含めてそれを熟知している彼は、全ての面において万全の対処を行っていたのである。情報戦を仕掛けようとしてもその根幹のところで跳ね返され、直接拠点を押さえようとした者は武力によって物理的に排除された。
もはや、彼らに残された道は自らの運命を受け入れることだけであった。
しかし、まだ全ての人々が希望を失っていたわけではなかった。
衛星軌道上、軌道ステーション“Blue Sky”。
旧世紀から存在するこの研究施設は、例によって孤立こそしていたが、中枢部が一般の規格から外れる独自の技術によって構成されていたため、Dr.アニヒレィスの支配を辛うじて免れていた。
その三方に大きく伸びた滑走路から、見慣れない戦闘機が飛び立つ。
光の三原色に彩られたそれらは、常識を遥かに超えた加速、旋回、自転を繰り返し、アクロバティックに宇宙を舞う。ほんの数秒で衛星を周回したかと思えば、そのままの速度で翼が触れ合うほどの距離まで接近、メートル単位の1点で寸分の狂いも無く3機同時にすれ違った。
軌道ステーションの窓からそれらを見守る白衣の研究者。片足に包帯を巻き、杖を突いた痛々しい姿の彼は、何かを確信して満足げに微笑んだ。
PC197.03/04.12:00
Operation “RayGing Blue” start.